★★那須疎水の100年★★
下野新聞の写真を掲載
 現在の那須疎水の取水堰など  那須野が原博物館に展示の写真でもあります。

○那須疎水は1885(明治18)4月に着工し、同年9月に本幹約16Km、
 1年後に4本の分水路約60Kmが完成。
 その後3年間で主な支線水路が整えられた。戦後のライニングなどで、
 小分水路延び、現在の総延長は約200Kmに及ぶ。
○供水地域は黒磯市と大田原市、西那須野町、湯津上村。1967年に開始した
 国営那須野ケ原開拓建設事業で新たに塩原町が加わった。
 1880年の明治用水(愛知県)、1882年の安積疎水(福島県)とともに
 日本三大疎水に数えられる。
○疎水開削の最大の功労者は当時、「那須開墾社」の社長だった印南丈作と
 幹事の矢板武だった。6回にわたる上京で政府に陳情を続けながら、私財を
 投じて試削工事を実施。国営事業にこぎ着けた。
○那須のが原の水田開発は戦前、地質の保水力の問題などで急速には
 広まらなかったが、50年代以降に電気揚水が登場してから、面積は飛躍的に
 延びた。地下水利用の普及で「開田ブーム」が起き、50(昭和25)年に
 6千ヘクタール前後だった那須野ケ原の水田は、70年に一気に1万5千
 へクタールを超えた。
  ***以上、 2000/06/11 下野新聞掲載記事より***

 また、記事では、水路のコンクリート化が漏水を無くし、地下水位の低下を
 まねいたのではないかと専門家の警告を掲載している。

 水路をコンクリート化する前の雰囲気は、乃木神社周辺、特に南側で
 見ることが出来ます。(那須疎水ではありませんが)

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